ブログ「蛇の卵」|映画「オーシャンズ」について

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2010年8 月15日 (日)

映画「オーシャンズ」について

ジャック・ペランがプロデュースしたドキュメンタリー映画「オーシャンズ」を見て、がっかりしたというのが本当のところだ。

僕はもともとは同じジャック・ペランのプロデュースした、鳥の生態を追ったドキュメンタリー「Le Peuple Migrateur(日本名「WATARIDORI」)」の、従来ではあり得ないような渡り鳥の近接撮影と、説明を一切排除した寡黙な演出に文字通り熱狂したクチなので、どうしても期待が大きかったのだ。

しかし「オーシャンズ」ではそういった撮影技法上で感心させられるようなところは全くなく(もちろん深海での撮影なので、それ相応の苦労はあっただろうと思われるが)、その上、途中にペラン自身が出演して海の動物たちがどんどんと地球上から消えゆく現状を(それも小さい子供を相手にして!)警告するシーケンスに至っては、相当に鼻白む思いがした物だった。そしてこれに例の「フカヒレ狩猟の映像は再現映像です」などと言った解説が最後に追い打ちをかける。

もちろん「WATARIDORI」の時でも、ある種の演出がなかったと言えばおそらく嘘になるだろう。たとえば工場から出たオイルに足を取られて出られなくなった鳥のシーンなどは、やや作り物めいている。しかし「WATARIDORI」は一切これらについて説明をしなかった。理由は簡単で、同様のことはあちこちで起きているわけで、その必要がなかったからだろう。だからたとえ人の手が直接関わっているできごとであったとしても「オーシャンズ」において「これは再現映像です」などとわざわざ断る必要はあったのだろうか?と思ってしまう。別にヤラセを肯定するつもりはないが、ある程度メッセージ性の強い表現において、蛇足とか野暮とか言うものはやはり考慮に入れておいた方がいい物ではないかと思ってしまう。

もっともそういった点を差し置いても、「オーシャンズ」の海中での撮影映像は、「WATARIDORI」での近接映像のシンプルさとそれがもたらす力強いメッセージ性の微塵も感じられなかった点が、何よりも残念でならない。このところ「ディープ・ブルー」や「アース」といった、どこかで見たような映像をつなぎ合わせただけの「エコ教条的」なドキュメンタリーが増えていて、それも結構観客を動員しているようだったので、真打ちの登場を期待したのだが、それも叶わぬ夢と終わったようだ。

今夜は静かに独りで酒でも呑みながら「WATARIDORI」のDVDでも見てフテ寝でもするとしよう。

2010年8 月13日 (金)

モエレ沼公園 和讃

北海道、とりわけ札幌に足繁く通うようになって数回にわたって足を運んだ場所の一つに、「モエレ沼公園」がある。このイサム・ノグチ最後の仕事の雄大なランドスケープは、いつ訪れても僕を魅了してやまない。以前、札幌出身の知り合いにこの施設を知っているかどうかを訊いたところ、知らないと言っていた。現地の人間が現地の名所のことを知らないのはよくある話なのだが、僕の彼の地への想いが大きいだけに、そのときはさすがに面食らったものだった。

最初に訪れたときには、まだモエレ山も造営中で、大噴水も建造中の冬の時だった。園内は雪に覆われ、平日に訪れたせいもあってか来訪者もほとんどいず、施設全体がただ静かに息を潜めて、春の訪れを持ち続けているかのようだった。

モエレ沼公園,2004/12/12
モエレ沼公園,2004/12/12
モエレ沼公園,2004/12/12
モエレ沼公園,2004/12/12

二回目に訪れたのは、モエレ山も完成し、噴水も完成したときだった。以前に訪れたときには雪に沈んでいた園内も、緑に包まれた姿をあらわにしていた。やはりこの公園には緑が似つかわしいと思う。雪に沈んでいるよりもその方がはるかにランドスケープの雄大さが際立つからだ。

モエレ沼公園,2005/7/4
モエレ沼公園,2005/7/4
モエレ沼公園,2005/7/4
モエレ沼公園,2005/7/4
モエレ沼公園,2005/7/4

モエレ山はすでに完成しており、山頂まで続く白い階段が、まるで天国への階段のごとくまっすぐと青空に向かって伸びていた。

モエレ沼公園,2005/7/4

後に三角点が設置される山頂には、このときにはまだ何もなかった。

モエレ沼公園,2005/7/4
モエレ沼公園,2005/7/4

モエレビーチには水が注がれ、来園者の目と足を潤していた。

モエレ沼公園,2005/7/4

そして大噴水である。単に水が高く吹き出るだけでなく、十数分から数十分にわたる水による一大ページェントを繰り広げるこの噴水は、時に激しく、そして時には海面を思わせるような穏やかさを交えつつ、水という存在と人間との太古からの関わりにさえも想いを馳せさせてくれる。それが時に牧歌的でエロチックな感覚を伴いさえするのが、イサム・ノグチ的だと思う。

モエレ沼公園,2005/7/4

グランドオープンを迎えていなかったせいもあるだろうが、この頃まではまだこの施設は知る人ぞ知る施設といった形で、園内は至って静かな物だった。しかしそれから三年をおいて三回目に訪れたときは、もはやそこにはそういった静けさはなかった。そこは札幌市民定番の憩いの場と化していたのだった。訪れた日は金曜日で早朝はまだ人が少なかったが、土曜日と併せて遅いゴールデンウィークの連休をとった家庭が多かったのか、十時頃を過ぎると家族連れが大挙して押し寄せ、思い思いに存分園内を遊び回るようになっていたのだ。

モエレ沼公園,2009/05/14
モエレ沼公園,2009/05/14

園内は緑が増え、これまで見た中ではもっとも木々が成長していたが、中でも一番驚いたのは、大噴水の周りのエゾマツ林の成長ぶりだった。噴水がオープンした当初よりも木々が高く大きく成長しており、僕はその様子に思わずうれしくなり微笑んでしまった。

モエレ沼公園,2009/05/14
モエレ沼公園,2009/05/14
モエレ沼公園,2009/05/14

枝からは新緑が芽吹いていた。その様子は、この林がこれまでの三年をかけておずおずとこの地に根付いてきたであろう、足取りの静かさと確かさを物語っていた。それを見ながら、そのうちこれらの木は成長するにつれて何本か間伐されさらに成長し、ついには数十年後、モエレ山からも見えなくなるほどに噴水を覆い隠すようになるのだろうかと、ふと思った。実際にどういったふうに扱われるのかは不明だが。

モエレ沼公園,2009/05/14

園内には子供達の歓声が響き、家族連れは思い思いにその雄大な景色を楽しんでいた。普段ならそうした人が集まるようなところは僕はあまり好きではないし、自分の好きな場所に人が大挙して集まるとむしろ不愉快な気持ちになる方なのだが、北海道の僕の愛する光の中でこの施設が、大勢の来園客と共に恒久の晩年を過ごす様を見るのは、なぜか無上の悦びを感じる。イサム・ノグチの少し「してやったり」のいたずらっぽい笑顔が目に浮かぶようにも感じられるからだ。

モエレ沼公園,2009/05/14

結局僕はこの日は数時間あまり園内を散策していた。そしてまた当然のように僕はここに来るだろうと確信したし、そうありたいと思った。おおよそ他では得られない悦びを与えてくれるこの公園が、僕は大好きだ。こんな場所は他にはそうそうないよ。

2010年7 月12日 (月)

ショーの途中に水槽から飛び出してしまうイルカ

Youtubeにこういった動画がアップされていた。

つまりショーの最中にイルカが水槽から飛び出してしまい、元に戻れなくなると言う一見微笑ましいシーンなのだが、はたしてこれが微笑ましいのかどうか。

僕はこれまでの人生経験から、ものごとの受け止め方が一貫してひねくれていて、イルカを見て幸せそうとか気持ちよさそうとか愉しそうとか癒されるとかいったことを感じることが無い人間で、こうした光景を見てもむしろ逆になんらかのイルカからのSOSなのでは無いかと感じてしまうのだ。実際、多少の身体の構造の違いはあっても、基本的に人間と同じ肺呼吸の生き物が水の中で生きるなんて相当に大変はずで、しかも海とは違った狭い水槽に押し込められているのだから、相当のストレスがあるのではないだろうか。実際、水族館で飼われているイルカは概して短命で、しかもその死因の大半がストレスによる胃潰瘍だという話を聞いたことがある。

もっともこれは永久に答えの出ない問いなわけで、別に僕とてもことさらにそれを強調して、例のリック・オバリー氏のようにイルカショー全体にの反対を訴えたりするつもりも毛頭無い。僕がここで言いたいのは、表層的な物事は概してその奥にある真相を覆い隠してしまう可能性が必ず存在すると言うこと、ただそれだけである。

表層と深層の狭間の業苦で絶えずもだえ苦しむもの、それが生き物というわけだ。僕はそこに自分の人生の似姿を見る思いがする。ただそれだけのことだ。ああ、あれはまるで自分のようだ、と。

2010年6 月20日 (日)

映画「ザ・コーブ(The Cove)」について

  和歌山県太地でのイルカ猟を一方的に批判するドキュメンタリー映画「ザ・コーブ(The Cove)」が一部で物議を醸している。

 実は映画の方は輸入盤のDVDで一足早く拝見したのだが、日本版は未見なので詳細な コメントはしにくい。ただ、輸入盤を通して見た限りでは、海外のイルカ愛好家に共通のおなじみ無邪気なイルカ保護の観点から、太地のイルカ猟を盗撮し関連のデータを掲げて批判するという基本的な構造は、すでに巷間で伝えられている 情報と同じようで、やはり考え込んでしまう。数カ所日本版では削除されそうなところ(たとえば日本が国際社会で票の買収に走っているらしいことなど)や、関係者の顔にモザイクが入っていそうなところも見受けられたが、サスペンスタッチの盗撮ドキュメントとしては時々笑ってしまうほどによくできていて、それがさらに当惑を誘う。

 その中心となってイルカ猟の盗撮を指導するのはリック・オバリー。氏はかつての自身のイルカの飼育経験と、そのイルカが 目の前で自殺(?)してしまった経験から、イルカの飼育全てに反対する立場に転じた人間で、いわば海洋動物保護の観点からすれば 「急進派」にあたる。映画の中でも自身の経験を色々とあげてイルカについて語っているが、大半の日本人からすれば 当惑を禁じ得ないタイプの人間だろう。それは僕にしてもそうで、たとえイルカの小説などというものを書いて いたとしても、ここまでやるのはどうだろうかと思ってしまう代物だった。

写真:映画「ザ・コーブ」のワンシーン

 映画の視点として興味深いのは、「日本人の大半は政府によって事実を隠されている」という立場をとっていることで、 イルカの体内に含まれる水銀の害について言及するときなどは、わざわざ水俣で未曾有の水銀中毒公害が起きたときの政府の情報統制についてさえも言及し(!)、悪いのはあくまでも日本政府だとくどいまでに強調している。街角でのインタビューまで入れているあたり、制作者は日本人の一般的なこれらの問題に対するおおざっぱな認識を把握して配慮した上でシナリオを作り上げているようだ。

写真:映画「ザ・コーブ」のワンシーン

 ただし、もちろんそれらはあくまでも表面的な配慮で、日本人ならだれでも感じるであろう、鯨食の是非の問題や 提出される水銀のデータのうさんくささと、そもそもこうした問題をからめる必要があるのかどうかについては 全く配慮されていず、こういった点は批判されてしかるべきだろう。問題はどうしてこうした荒っぽい映画が 制作可能で、しかも国際社会へ向けて上映することが可能なのか?という点だ。なぜ彼らはかくも無邪気でい続けられるのか?

 これはもっと押し進めると、なぜこういった映画に資金が流入するのか?といった問いに還元できる だろう。映画ではカメラを搭載した小型ラジコン飛行船を制作したり、特撮の世界ではおなじみの「ILM(インダストリアル・ライト&マジック)」のスタッフに依頼して隠しカメラまで作り(!)、 それを夜間に周辺の岩礁に設置したりするのだが、僕からするとそんなお金がどこから来るのだろうと思ってしまう。 ある意味では非常にうらやましいのだが(笑)

 この映画に限らず、世界的には鯨やイルカ類は高度な知性をもっているとされている。僕自身はたとえその生き物が 言葉を喋って文化を持っているからといって、それが知性が高いことの基準にはならないだろうと思っているし、 そうした高度な知性を云々したり渇望したりできるほどには人間とか言う生き物の知性も高くはないだろう とも思ってるので、そうした見解からは距離を置いているつもりだし、実際、作品を書くときも その点については最大限気をつかったつもりだ。

 それではどうしてこれらの「高度な知性」に関する言説が、研究や芸術表現のレベルを超えて政治の世界までも 流布するのか。僕はこれはキリスト教右派への政治的な牽制球だと思っている。日本ではあまり関心を 持たれていないが、キリスト教右派とはつまりキリスト教の教義を政治の世界に持ち込む運動や団体のことで、 人工の7割以上がキリスト教を信奉しているアメリカなどに於いては、こういった層がかなりの政治的な発言権を 持っていることは、充分推測可能なことである。

 ご存じのようにキリスト教では人間を生命の最上位に置く。これは基本教義のひとつと言っていいと思うが、そうした キリスト教が政治を牛耳ることを好ましく思わない人々が、こうした言説を流布させるのに立ち回っているのではないかと 言うことだ。 これについてはまた機会を改めて詳しく書けたらいいのだが、聖書を至上のものと捉え、あくまでも人間を 最上位に置く人々に対して、人間以外にも高度な知性があると訴えるのは、直接的にではないにしろ政治的にしろ思想的にも 充分効果的なはずだからだ。

 上記はあくまでも個人的な推測(あるいは妄想)の域を出ていないが、そう考えるとあの海外の鯨類の保護保護運動家の 無邪気な態度が、そのまま世界に流通してしまうからくりも納得のいく話ではないだろうか? おそらく国際社会で捕鯨国家の 日本がつるし上げを食らうのは、日本がそうした国の中では最大の経済規模を誇り、政治の面でも宣伝効果が高く影響力も 大きいからだろう。「ザ・コーブ」自体、アメリカの映画でもあることだし、出資者からすれば暗に そうした目的で作成された可能性も否定できない。この映画の監督、ルイ・シホヨスは映画にも出てくる 「海洋保全協会(Oceanic Preservation Society, OPS)」とやらの主宰者らしいが、その人間がそういった自分たちの運動のもたらす政治的な効果に ついて知っていてやっているのかどうかについては不明だ。しかしアメリカ人は一般的に お金に関しては「クール」で「ドライ」だったりするので、制作費をかき集める際には、むしろ積極的にその手の政治家や団体に 赴いて出資を要請した可能性もある。

 この映画が批判されるべき理由。それは水銀云々や鯨食の問題、盗撮の是非などではない。もちろんそうした批判も あってもいいしそれ相応の代物だと思うのだが、この場合はむしろ、国内の政治的な思惑のために 生命保護を看板にして、他国の文化を言わば「ザッピング」して自分に都合のよい言説に仕立て上げる、その一方的な態度に 於いて批判されるべきではないだろうか?これはこの映画に限らず、捕鯨問題に関して何かと日本をつるし上げる 国などにも向けられるべきものだろう。

 海洋生物に限らず、動物について語るときは率直に生命の畏敬の念に基づいているべきだろう。それが動物について 語る人間の(変な表現だが)「義理を通す」と言うことなのだ。そしておそらくはそれこそが全ての 表現の目指す道で、表現を政治の道具にしてはいけないのではないだろうか?もちろん期せずしてそういう意味合いを 持ってしまう可能性は無いではないだろう。しかし制作者はそれを可能な限り避けて通るべきものではないだろうか? この映画に関しては関係者の自省を期待したいし、自戒を込めてそう言いたい。

2010年6 月14日 (月)

「はやぶさ」帰還

 6月13日に小惑星イトカワへの往復を成し遂げた日本の小惑星探査機「はやぶさ」が、採取したサンプルを乗せていると推測されるカプセルを放出した後、大気圏に突入してその使命を終えた。以下はアメリカのNASAが今回の帰還に際してわざわざ観測用の飛行機を飛ばして撮影した、大気圏突入の際の「はやぶさ」の燃え尽きる瞬間の映像だ。

 これらに関しては、すでにあちこちで報道され、また語られていることなので、ここでは詳細は語らない。ここで語りたいのはそれに関する一つの写真のことだ。

 河北新報社のこの記事によると、「はやぶさ」は大気圏に突入する直前に地球に向きを変え、地球の写真を撮影した。撮影された数枚のうちの大半は何も写っていなかったが、最後の1枚には乱れた映像ながらも地球の姿が映っていた。→写真

はやぶさの最後の写真/Hayabusa's Ladt Shot. Courtesy JAXA

 これを見て連想したのは、ボイジャー計画を率いていたカール・セーガンが、役目を終えて太陽系を離れつつあったボイジャーに撮らせた、最も遠い距離からの地球の写真、いわゆる「Pale Blue Dot」のことだ。以下の動画は、その画像とカール・セーガン自身による解説を再構成したものだ。

この距離から見ると地球というものはさして興味深い場所には見えない。
しかし私たちにとっては違う。

この点をよく見てほしい。

あれがここだ。あれが故郷だ。あれが私たちだ。

ここにすべてての人が住んでいる。
愛する人も、知人も、友達も、
今まで存在した全ての人が、みなここで人生を送っている。
喜びも悲しみも、自信たっぷりの幾多の宗教も政治思想も、経済主義も
すべての狩人も、牧人も、英雄も卑怯者も、
文明の創設者も、破壊者も、すべての王様も、農民も、
愛し合う夫婦も、すべての父と母、希望に満ちた子供、
発明家、そして探検家、道徳を教える先生も、腐敗した政治家も、
スーパースターも、偉大な指導者も、すべての聖者も、罪人も、
人類の歴史上すべての人が、ここに住んでいる。
太陽の光に照らされた塵にもひとしいこの場所に。

地球は、とても小さな舞台だ。広漠とした宇宙の中では。
考えてみてほしい。すべての将軍や皇帝が、勝利と栄光の名のもとに
流した血の河を。この点の、そのまたごく一部の
つかの間の支配者となるために。
考えてみてほしい。この点の片隅にいる住人が、
別の隅にいる、ほとんど見分けがつかない住人にたいして、
どれほど残虐な仕打ちをしてきたのかを。

どれほど多くの誤解があることか。
どれほど熱心に、人は殺し合うことか。
どれほどの激しい憎しみがあることか。
私たちの気どった態度、思い込みによる自惚れ。
自分たちは特別なんだという幻想。
この青白い点はそのことを教えてくれる。

私たちの惑星はこの漆黒の闇に囲まれた、
ひとかけらの孤独の泡にすぎない。
この広漠とした宇宙では私たちは名もない存在だ。
他に助けてくれる人はいない。私たち自身をのぞいては。

地球は、現在までに知られている、生命をはぐくむ唯一の星だ。
すくなくとも近い将来ほかに人類が移住できるような場所は存在しない。
行くことはできるか? たぶん住むことはできるか? いや、まだ
好き嫌いにかかわらず、いまのところ地球が私たちの住む場所だ。

天文学は、人を謙虚にし身のほどをわからせる学問だという。
人間の思い上がりを示すのに、これほどふさわしい例もないだろう。
私たちのちっぽけな世界を、はるか彼方からみた景色ほどには、

私にとって、この映像は私たちの責任を表しているように見える。
もっとお互いに気をくばり、この青白い点を大切にするという責任を。
私たちの知っている、ただひとつの故郷を。

 たかだか日本の探査機ごときで、と言う向きもあるかも知れない。しかし今回の一連の出来事は、これと同様の感慨を抱かせるに充分な出来事だったように思う。心より関係者各位の労をねぎらいたい。

2010年5 月20日 (木)

荒川修作死去

荒川修作が死んだらしい。

訃報:荒川修作さん73歳=前衛美術の旗手

前衛美術の旗手として活躍し、独特の建造物の作り手として国内外で知られた美術家・建築家の荒川修作(あらかわ・しゅうさく)さんが19日午前0時35分(現地時間)、米ニューヨーク市内の病院で死去した。73歳。

 「養老天命反転地」はもちろん行ったことがあるし、「遍在の場・奈義の龍安寺・心」のある奈義町現代美術館にも行ったことがある。「死なないために」のあるフレーズは、一時期自分の作品のエピグラフに掲げようかと思っていたし、古書店を巡って探しだした「意味のメカニズム」は今も本棚の中に収まっている。

氏の作品、特に明確に建築的な方向を目指し始めたころ以降の作品は、個人的な勝手な思い込みかも知れないが、僕がイルカを使って描写しようとしたことと同じ方向を目指していたような気がして、励まされるようなところが多かったように思う。おそらくもし彼と彼の仕事がなかったら、僕は作品を仕上げることが出来ないでいたか、出来たとしても全く別の物になっていたはずだ。謹んで冥福を祈る次第である。

『ざくろの色』プレミアム・エディション(セルゲイ・パラジャーノフ作品)

 パラジャーノフを賛美しつつ、その後発売され購入していたプレミアム・エディションについて書くことをすっかり忘れていたので、こっそり書くことにする。

ざくろの色 プレミアム・エディション 外装

 内容はリマスターされた本編DVD一枚に特典DVD二枚の計三枚、それにポストカード数枚。ポストカードは1枚物でも入っていたしはっきり言って余計なような気もするが、この手のセット物にはつきものだし別に悪い気はしない。100円ショップでフレームでも買ってこようかな? 外装の方は美麗な化粧箱で、でも小学校の頃の道具入れをちょっと連想もしてしまう。

ざくろの色 プレミアム・エディション 内容

 本編のリマスターの画質は、一枚物の方と比べると鑑賞の妨げとなっていたフィルムの揺れが徹底して抑えられていることには感心するものの、発色や細かいディティールの描写では明らかに劣っていると思えるようなところもあって、あまり良い印象は受けない。これは余計だったような気がする。単純に揺れを抑えるだけでよかったんじゃないだろうか。

 同梱の特典DVD二枚のうち一枚は、「“サヤト・ノヴァ”の記憶」「エロスとタナトス」の二編のドキュメンタリー。どちらもパラジャーノフの映画で助手として働いたレヴォン・グリゴリャンによるもので、「“サヤト・ノヴァ”の記憶」では偶然発見された「ざくろの色」の検閲でカットされた部分のフィルムとともに、同作の成立の経緯について語るといったものでこれだけでも、充分興味深い資料だ。それによると、作品のラストにはイスラム教徒による教会の襲撃のシーンなんていうものもあったらしく、僕個人の印象では「サヤト・ノヴァ」はもう少し説明的な作品だったように感じる。また、「エロスとタナトス」では文字通りパラジャーノフの作品を貫く二つの要素を、それぞれの作品と未公開映像を交えて解説していて説得力がある。

 もう一枚のDVDに収録されているのは、同じレヴォン・グリゴリャンによるドキュメンタリーの「地獄に堕ちるオルフェウス」「私はセルゲイ・パラジャーノフ」「タルコフスキーとパラジャーノフ“孤島”」の三本。「地獄に堕ちるオルフェウス」はパラジャーノフが投獄されているときにボールペン一本で描いたとされるイラストやタルコフスキーとの間で交わされた書簡を交えて、当時の彼の状況と心情に迫ると言った内容。「私はセルゲイ・パラジャーノフ」では「スラム砦の伝説」撮影の現場の様子とトビリシの生家の映像を交えながら、創作の秘密に迫る。「タルコフスキーとパラジャーノフ“孤島”」はタイトル通り、両者の表現者としての類似に迫る内容で、いずれも情報の乏しいパラジャーノフについてはものすごく重要だ。

 現在「ざくろの色」については、前の一枚物のDVDがすでに絶版になってしまっていて、手っ取り早く本編だけ見たいという人もこのプレミアム・エディションによってしか同作に触れることが出来ないので、少々問題のような気もする。同梱のDVDもファンなら間違いなく即買いの重要な内容を数多く含んでいて、これ単体で充分に作品として流通できると思うので、(本編のリマスターがあまりいただけないものの)バラ売りもした方が良いような気もする。

 それにしても「私はセルゲイ・パラジャーノフ」にて映し出される、主を失ったパラジャーノフの生家の寂しいことよ。いつかトビリシ(チフリス)にも行ってみたいと思うけど、外務省の情報に依れば、政情不安などもあってあまりおすすめできない状況らしい。もっともそれ以前に先立つものもない状態なので、どうしようもないわけだけど。いったいいつになったらそんなことができるのやら。

長編小説「イルカのキリー」絶賛発売中!

プロフィール

名前:三上憲一
別名:「出られない人」
生息国:日本/Japan
ブログ:「蛇の卵」
著者近影: くま
一言:今日も元気いっぱい!

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